schizophrenie


chapterⅧ



SOUL



お気に入りの言葉に
「万法と供たらざるものこれ何人ぞ?」
(全ての法というものの中に溶け込んでしまわぬものがお前の中にあるか?)
「束」
(万法をして万法たらしめ束ねているものが私の中にあります。)
というのがある。
その言葉は「目にあっては見と言い耳にあっては聞と言う。」と続く。

刷り込みという言葉をちょいとネットで調べてみたら「刷り込みにかかわる行動は、その基本的な部分は先天的に持っているものであり、 したがって本能行動の範疇であるが、そこに後天的に変更可能な部分が含まれている例もある。」と出て来た。
刷り込みの例で有名な話は「初めて見た物を親鳥と認識する雛鳥」の話だ。

「見る」というのは当然目で見るのだろうが匂いや声、人間が五感と呼ぶそれ以外のものでも認識するのだろう。
例えばそれが人ならどうだ?子供の頃親と思っていた人物が実は本当の親でなかった場合、何を持って「本当の親ではない」と認識するの だろうか?その感覚の中心は言葉では説明しようもないが、そこにおいて「五感の洗い直し」の必要に迫られるのは少し想像力を働かせれ ば理解出来るだろう。

俺は過去に「徹底して自分の五感の洗い直し」をした事がある。薬物を使用した。
思春期に世話になった精神科のドクターに「自分はその後薬物中毒になり、今はきっぱりと薬物使用をやめた。」と話した事がある。ドク ターは「ああいうのってやめれるものなの?」と怪訝そうに聞いた。 俺は「やめよう」と思ったその時にスッパリとやめたが‥。

ハードドラッグは人間の五感に強制的に強い快楽を与え依存性を持つ。ハードドラッグをやめるには「自分が強い快楽を完全に放棄する為 の正当な理由」を見つけなければならないのだ。その「正当な理由」は今俺の中に言葉として存在するがここでは言わない。ただ俺がここ で言いたいのは
「人間には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、皮膚感覚その他諸々の感覚達をほぼ中心的に制御し統御する機関がある」
という事だ。

ブルーハーツが「決して負けない強い力を僕は一つだけ持つ」と歌った様に。

俺の中にも似た様なものがある。それは通常
「細かい事をガタガタうるさいねん!」
という言葉として日常生活を営んでいる(笑)。
じゃーお前にはどの様なビジョンがあるのだ?という問いがある。
ビジョンはある。
俺は知っている。快楽と言うのは痛みが分散、熟成したものだという事を。
ただ「痛ければいい」というものでもない。

・人間社会というのは国家単位で「痛みを回避し麻痺させすりかえる」ものなのだ。

・だから自分がある目標を持って何かのアクションを起こした際に身体に生まれる痛みを「社会」とコミュニケートさせる事は一切避けね ばならない。求道者の様に徹底的に孤独との格闘の中で「その痛み」を感じ続け理解する様に努めなければならない。

・痛みの中ではあらゆる誘惑があるだろう。生活を営みながら意思を持ち続けなければならない。何度も目を開けたまま気絶するだろう。 しかし人の声を聞いた時、思い出さなければならない。「自分が何の為に生きていたか」という事を。
それを忘れてしまったなら話はそれで終わりだ。

再度「もしも」というスケッチを引用しよう。

「目の前に長い坂がある。
僕はその坂が好きだ。
僕の隣の人は坂を目の前に躊躇している。
急な長い坂道だからだ。
子供の頃、坂道で転んで大きな怪我をした。
それ以来、坂道が嫌いだって。
じゃあ聞くけど、
『どうして君は坂道を目の前にして呆然と突っ立てるんだ?』」

若かったんだなあ‥と言うならそれもいいだろう。だけど俺は強く思う。
その時坂を上りたかったのは他の誰でもない、君自身なんだ、と。

快楽などと言うどこにでもありそうな言葉を使って申し訳ないとは思うが、、要するに君は快楽を求めたんじゃないのか?
「悪い事じゃないのに何故みんな確かめようともせず諦め顔で寂しそうにしてるんだろう、、?」
と疑問に感じ自分はその夢を追おうと思ったんじゃなかったのか?
俺には全く分からない。何故諦めるのか?
いや、本当は分かっている。痛いからだ。

これが大雑把に現した俺のビジョンだ。
問題は方法論だが‥ここでは触れない。