schizophrenie


chapterⅦ



瀬戸際



いつも思うんだけど人は「身体を壊す」事についてあまり恐怖を感じない様だ。大体にして人が恐怖を感じるのは「痛み」である。身体を 壊す事が痛みに繋がる事を頭では解っていてもだ…。

吐血したり通院を繰り返したりしても平然とした風を装っていたい心理ってゆーのは何なんだろう?きっと瀬戸際に為す術を持たず絶望 し、それでもまだ「自分が自分である事」を表現し続けていたいんだろう。
彼女は話の最後に「私もうボロボロやねん」と言って泣いた。

見栄も格好もない、その後は何と言ったのかも聞き取れずちゃぶ台でも引っくり返す様な勢いで「わーーーっ」と泣き五秒後にケロッと泣 き止んだ。

大したモノだ。

さてアキラはと言うと彼女にあれこれアドバイスをしようとするものの言葉は空しく空を切る。今一つパッとしないアキラの様子を本能的 に察知し尽くしている彼女は不機嫌な表情を全く隠さず、その澄んだ綺麗な両の目で露骨にアキラの顔を睨み続ける(鬼の様にあおり続け るアルコールのせいで完全に酔っ払ってはいるのだが。笑)。

しかしいくら愛しくは思っていても一人の女の子の為に「俺の命をくれてやる!」とはなかなか言えない。守るモノがあれば尚更だ。
女の子がその「言葉」を求めているだけで「命までも求めているわけではない」のを頭では解っていても「俺の命をくれてやる!」とはな かなか言えない。言っちまったらおしまいなのだ。うまくは言えないが男と女は違うのだ。

それでも彼女を何とか守りたいというアキラの気持ちはどこへ向かうのだろう。瀬戸際にある時人の性(さが)は、一つ一つ確かめる様に 自分達の心と身体をも刻み傷つけて行く。

俺達に何が起きようと、例え今日その身体が刻々と蝕まれ例えば誰かが死んでしまったとしても、時間はいつもの様に知らん顔して平然と 過ぎていく。俺は時々時間そのものになりたいと思う。でも俺達は時間にはなれない。

そう。彼女の歌にある様に。

「運んでいく 運んでいく 事も無げに 無表情に
流れていく 流れていく 誰にも時は止められない。」
幸せの時。それは一体何を意味するのだろう?
瀬戸際にある時には一杯のホットミルクとトーストが幸せな時もある。

俺は痛みの中にあってはただ「痛みだけ」を信じている。
痛みが感受性を麻痺させている時には自分が感じているのは「ただその痛みだけ」でしかない。痛みを回避して何か他の感覚を求めるとい うのは要するに「自分自身を明け渡す事」に繋がるからだ。

身体を痛みが覆っている時には心の震えも感じないし感動もしにくい。それはとても寂しく味気ない事でもあるが、要するに「自分の感覚 が全て痛みである」という事だ。仕方がない。その痛み自身を自分が求めたのか不可抗力だったのかは別にしても。

恋をすれば胸が痛くなる。頭の痛い問題も増えるだろう。燃え上がる様な恋ならば尚更だ。俺は勝手に確信している。
人とは‥、痛みを求めるものなのだ。

俺やアキラが「彼女の瀬戸際」を見て身体の中の何かが震え目を覚まそうとするのは、決して同情やその類のモノではないというのは当然 の事だ。
彼女を支えて来たのはプライドであり、それは俺達自身の問題でもあったからだ。
もっと分かりやすく言えば、ステージに立った時瀬戸際でないスーパースターはいない。

言い方を変えれば俺は「目で認識しイメージする世界」と「身体が五感として感じる世界」が大きく分裂している。

もっと分かりやすく言えば‥
だめだ‥。この辺りからまだリハビリが完了していない。俺は発狂したままだ。

‥‥‥。

瀬戸際は瀬戸際。アキラも。彼女も。分裂した俺自身も。

しかし瀬戸際にあっても時は過ぎていく。 良いか悪いかは別問題にしてもだ。
しかし俺は自由だけは確保している。したがって「何 とでも言える」。

誰にも時は止められない

そ う。 誰 にも止められない