schizophrenie


chapterⅡ



リアリティー


大阪にやって来た。

俺が小学校の修学旅行以外に初めて見た大阪の街は、天王寺の駅から見える「新宿ごちそうビル」の「新宿」という巨大な看板だけが目に 飛び込んで来る俺の期待とは裏腹なものだった。
その「新宿」という看板を見て自分が何か選択を間違えた様な妙な気分がした。

七万円の貯金のうち四万円をアパートを借りるのに費やし、自分で初めて借りたアパートの部屋で一晩過ごしたあくる日の午後、俺は地下 鉄に乗って二駅向こうの町の楽器屋に行き、有り金の殆んどをはたいて自分のエレキギターを買い、残り少ない金を節約するため帰りはア パートまで徒歩で帰った。

金はもう五百円も残っていなかったので腹が減ったら水道のカルキの匂いで吐きそうな水をたっぷりと飲み、三日間ギターを弾き歌を歌っ て過ごした。

その年の七月には例年にない異常な寒波が来ていたらしく、夜は寒かったが布団もないのでボストンバッグの中の衣類の全てを身体にかけ て眠った。
三日目に「これでは死ぬ」と普通に思った。それは俺の理想とする死に方ではなかったのかも知れない。

エレキを買って歩いて帰ってきた時に見かけたアパートの近くのビルの「香港」という名の中華料理屋でアルバイトしようと思い、残り僅 かな金で履歴書を買いに行き、その道すがら通り掛かった従業員募集していた新聞屋に「ここ、金儲けさせてくれますか?」といきなり押 し掛け働く事になった。半年間世話になった。

新聞屋で働きながらいくらギターばかり弾いていてもどうとも埒が明かなかった。
ライブハウスで働こうと思い、ライブハウスを経営するレジャービルのオーナーの所に二回押し掛けてみたが「うちではスタッフは足りて るから」と断られた。

その頃偶然、俺が小学校二年生の時に女を連れて蒸発した俺の実の父親に会う機会があった。
父親は
「父親が息子にやる最初で最後の小遣いだ。女でも何でも好きなものを買え。」
と言って俺に三万円くれた。俺はその金を持ってアメリカ村に行きGERBERのジャックナイフを買った。

ある日、そのジャックナイフをポケットに忍ばせて
「音楽の勉強の為にどうしてもここで働かせて欲しい。給料はいらない。生活の事は自分で何とかする。」
と再度ライブハウスに押し掛けた。
ポケットの中に突っ込んでいた手は刃を出したジャックナイフを握っていた。心は「今度断ったら刺す。」と念じていた。目茶苦茶だ。

しかし俺のそのセリフは、今現在ではパチンコ屋を経営しているが大学時代にやっていた演劇に対する愛情を捨て切れず、儲けが無いのを 承知でライブハウスも経営していたオーナーの心を打ったらしかった。俺はそのライブハウスで幾らかの条件付きでスタッフとして働ける 事になった。アキラと出逢ったのはその後すぐだ。


新聞屋にいた頃、どこかの誰かがくれたビートルズのポスターパネルを窓に張り外部の光を遮断した。 部屋の蛍光灯を赤いセロハン紙で覆った。今ならわかる。要するに俺は「腹が減っていた」のだ。

情熱だけが(それは何だろう?怒り?不安?性欲?いや、情熱だ。)身体を熱くしていた。 聞きたくもない面白くもないボブ・マーリーやブルース・スプリングスティーンをラジカセで繰り返し聞いた。「こんな音楽のどこが面白いんだろう?」と思っ ていた。俺は日本のフォークソングが好きだったのだ。
辛い時にも中島みゆきや吉田拓郎を聞けば「頑張ろう」と思えたからだ。

冬の雨の中の朝刊の配達は過酷だ。
俺は馬鹿で寂しく、夢が膨らみ夜になるといつまでも寝ないので朝起きるのは苦手だった。ひどい時には他の連中が配達から帰ってくる頃 に店に行き用意をし、自転車を猛ダッシュで走らせ何とか時間に間に合わそうとした。
一度新しく入ってきたかわいい顔の男の子に新聞配達コースを教えた事がある。
俺はいつもの様に遅めに店に来てその男の子を連れて配達に出かけた。俺が十七歳、彼が、十四~十五歳か。雨の中で少しでも速く動く為 に服を脱いで上半身裸になって自転車を全速力で漕いだ。
漕ぎながら時折後ろを振り返る。速度に従って前方から顔面に横殴り状態で降り付ける大粒の雨に目を細めながら、俺に遅れぬ様に自転車 を全速力で漕ぐ彼は、「まるで何か面白い事でもしている様な笑顔」で「まるで夢中で自分の夢を追いかけている」とでも言った感じで自 転車を漕ぐ俺の背中を見つめていた。
俺はその時の彼の新鮮な笑顔を今でもまだ憶えている。俺の世界の中であの笑顔はどこに消えてしまったのだろうと思う時がある。そんな 時には「俺は何を間違えたのだろう」とさえ考えてしまう時もある。

まあしかしそれはさておきとにかく、そんなこんなの環境で貧しく寂しく腹を減らした四畳半だ(その頃には同じアパート内で三畳部屋か ら四畳半部屋に転居していたのだ。)。ロックミュージックを聴いておいそれとご機嫌になれる環境とは言いがたいだろう。

しかし、

眩暈の様な視界の中で過ごしていたある日、電車の中でウォークマンなど持たぬ俺の耳に(その当時ウォークマンなんてあったのか な?)、毎日ラジカセでしつこく聞いていたブルース・スプリングスティーンの張りのあるフレーズが力強く記憶された。
ああいう感覚は誰でも持つものなのだろうか?と思う。それに似たような体験はその後にもある。しかしあの様に限定された特殊な状況は そう多くは存在しないだろう。
人は別に好きじゃないロックを無理に好きになる必要などないのだ。ましてや食うや食わずの環境では、だ。それどころじゃないというの が普通だろう。
俺がロックをしなければならないのはカッコよく言えば運命なのであり、それが俺のロックの原点なのは間違いない。死に掛けていた俺は ロックに賭け、手にいれ、再生を果たしかろうじて生き残った。


寂しさに抗うことは難しかった。給料をもらったその日に喫茶店のゲーム機で有り金ほとんど使ってしまったりした。若さの馬鹿さ加減っ てのはそんなもんだ。
腹は減らしていた。俺がハングリー精神という言葉を理解するのにはそれなりのプロセスが必要だった。俺は実際に腹を減らしていたから だ。今でも時々その反動で無性に牛丼が食いたくなる時がある。

同じ様に寂しい若い男たちがいた。
俺は情熱だけは人一倍だったから奴らは俺の元にやって来た。
狭いアパートのコタツで眠り、朝になると俺の歯ブラシで歯を磨き用事に出かけていった。
いつも何かに怯えているヤツもいた。
線路沿いの細い道を歩いていると、
「今、あの電車の中のヤツと目が合った。今度会ったら殴られる。」
などと言って怯えていた。
数年後偶然街で会ったヤツは、「俺、組に入ってん。」と懐かしい笑顔で微笑んだ。
組というのは暴力団の事だ。そして相変わらずの人懐っこそうな頼りなさげな笑顔を少し傾け、気恥ずかしそうに小さく手を振りながらそ いつは雑踏の中に消えて行った。

その頃俺を尊敬していたという小学生のKという奴がいて、二~三年後中学校で知り合った連れと一緒に俺の初ライヴに来てくれた。 その連れも「麻倉さんの話しはいつもKから聞いています。僕もいつかきっとあなたのバンドに入りたいと思ってます。」等と嬉しい事を言ってくれていた。

飲めない酒を飲んで懐かしい話で盛り上がり、その晩Kはうちの部屋に泊めた(その頃には俺の部屋は六畳部屋と三畳のキッチンの1Kっ てヤツに昇格していた)。すると朝方になってまだ当時中学生だったKはライヴでナンパした女の子と俺の部屋のコタツでエッチを始めて しまったのだった。
俺は知らん顔して眠ったフリをしていたがいたが当時俺が一緒に住んでいた女の子が泣き出し(この女の子は結構良家のお嬢様だったの だ)、怒ってヤツと女の子を追い出してしまった。
「ここは私達の部屋じゃないの?エッチしたいならホテルでもどこでも行ったらいいやんか!」
と財布から1万円札を取り出すと二人に投げつけ、物凄い勢いで部屋から出て行ってしまったのだ。
俺は彼女を追いかけ慰め、部屋に戻った時には奴らはもういなかった。
「ごめんなさい。」と書かれた手紙の上に彼女が投げ付けた1万円札が置かれていた。そいつと会う事はその後なかった。

時々真実とかリアルという言葉を聴いた時に衝動的に何かが震え、そいつの何もかもを破壊してやろうかという暴力的衝動にかられる事が ある(そんな事はしないが)。
人は何の為に生きるのだろうと今でも繰り返し考える。人は生きたい様に、ではなく「勝手に生きればいい」のだ。
ただ世界は大きく未知である。最も簡単に言えば「認識というのはやはり不可能なのかも知れない」という事だ。

その後も本当に色々な事があった。膨大な数のアクシデントがなければ不屈の闘志など存在しようがない。そういう事だ。

アキラ…。

俺はお前が一体誰なのかなんて考えたくなかったし、これからも出来るなら考えたくないというのが正直な気持ちだ。
俺達はただ単に寂しがり屋の弱い少年なのかも知れない。
今は分かっている。俺は誓いを信じたかったし約束を信じたかった。

俺の存在自体はまだ分からない事が多すぎる。
でも俺の理想の中心で今でも俺を強く支えているのは、あの腹を減らし、悔しさに抗う術を持たなかった無力な俺達のたった一つの誓いな んだろう。

語弊などない。俺は神様になるよ。