schizophrenie


chapterⅡ



虚構世界Ⅱ


僕が自由になるのは僕の権利だったのだろうが、僕が自由にする事で起こりえる教団のその後の展開は後から考えてみればそれは大変なも のだった。

仕事に向かう車の行き先の予定を変更させ、マーチング・バンドの、僕の練習の様子を会長が見に来た時には監督、コーチ、その他高等学 校内に残っていた教師達も慌てて出迎え、緊張し最敬礼をもって応対していた。連絡をせずにいきなりの来訪だったのだろう。

僕はその時のざわついた彼らの様子を、演奏を中断したマーチング・バンドの隊列の中から眺めていた。

十二月の、地面も凍り付く様な冷たい風が吹き付けるグラウンドに、一糸乱れず隊列を組んだマーチング・バンド。それを高台から見学す る会長。そして慌てふためく教師達の姿がそこにあった。
後日、会長の側近達が
「会長様は気が狂われたのか?」
と動揺していたという話も聞いた。

何年も経ってから用事で会長宅に行った時、会長宅の玄関で奥様が
「あんたどないしてんの‥?会長さん心配してはんねんで‥。」
と言っていた。

僕の家出を許したという件で母と会長の信頼関係は修復不可能となり、その後母は生活の基板を会長の元から分かつ事になった。しかしま だ教団には属していた。
そして母が新たに働く事になったその施設で、初めはほんの小さな職場の人間関係のもつれが、みるみるうちに普通では考えられない程大 きな派閥間の争い、権力闘争にまで発展し、その権力闘争は会長に取り返しの付かない程大きなダメージを与えたという話も聞いた。

僕の選択は正しかったと思う。
ただ、一から自由を手に入れる為には無知をも含めた若さ、体力、健康、相応の知能、運や‥他人の愛、色々なものが必要だった。
僕は僕自身が自由になるその過程でそれらを持っていない人たちを結果的に見捨てたかも知れない。
自分を責めている訳じゃない。僕は出来る限りの事はした。異論をを唱える人もいるだろうが。

ある日、無理がたたり脳梗塞で倒れ、絶対安静、面会謝絶になっていた会長の病室に僕は忍び込む様にして会長に会いに行った。
その「世界でも有数」と言われる規模の、教団が創った病院へは高等学校時代に頻繁に出入りしていた為、内部の様子は大体分かってい た。
僕は精神病でも何でもなかったが、自殺未遂を繰り返す事によって発生した二百万円に上る医療費を保険適用させる為に(そんなお金はと てもなかった)、その病院の鉄格子のついた精神病棟に三週間も入院したりしていたし(その中で拘束されていたという事じゃない。素晴 しい出会いの想い出がたくさん詰まった経験だ)、その前後に心理カウンセリングに通っていたという経緯もあり、「見方によってはその 病院の事を誰よりも知り尽くしていた」のだ。

そこには会長と会長の長男がいた。僕が共に教団の将来を背負って立つべき予定だった人物だ。
彼らは突然の僕の来訪に少しだけ驚いたものの、すぐに懐かしい笑顔で僕を出迎えてくれた。

「なあ三日月。婦長は誰にも会うたらあかん言うけど、向こうから来てくれるもんしゃーないやないか。なあ?」
と、まず会長が嬉しそうな笑顔を作って言ってくれた。
「申し訳ありません。」
と僕が答えた。会長が言葉を続けた。
「なあ三日月。子供いうもんは、ほんまに、作るもんやのうて授かるもんやぞ‥。」
会長の長男は黙っていた。
僕はその言葉に、椅子に座ったまま頭をひれ伏し
「勿体のう御座います」
と言った。

僕のその言葉は、病床の身の会長には受け止められないものであるらしかった。
会長はふと向こうを向き少し悔しそうに、何かに耐える様にして黙った。そして最後の力を振り絞る様にして彼の長男にこう告げた。
「おい。これ何か箱に入れたらんかい‥。持って帰られへんやないか。」
そう言って会長が僕への手土産を長男に渡すと、それまで事の成り行きを少し緊張した様子で注意深く見守っていた長男が初めて笑顔にな り、そのお土産を僕に手渡した。
「親が子供に送るプレゼントです。」
彼はいつも通りの優しい笑顔で僕にそう言ってくれた。
そして生きた会長の声を聞くのも、顔を見るのもそれが最後になった。

責任というモノを守っている人達がいる。僕には「人の上に立つ責任」があった。 (それがそもそもの間違いだ。その組織は宗教団体だったのだ。しかし、僕にはその事を批判するパワーはないのだ。いくら傍からは狂信的に見えようが、その 絶対的権力者「会長」の真の思いを知っていれば絶対に批判など出来ない。僕も会長も同じ人間だ。会長は僕の命や存在など取るに足らな い程に、本当に自分には厳しく質素で勤勉で、人の事をこの上ない程一生懸命考えていた。)

クーデター。転覆。時代の変移…。

今思う。僕は生き残り祝福されている。
自由で何にも属しておらず、身体に刻まれた記憶に反応しながら。

自由を教えてくれたのは自由を知っていた人達。 誘ったのは春の風や太陽、木々のざわめき、淡い性への憧れだろうか‥。

自由‥。

これは一体何の告白だろう?
多分 サヨナラはまだ終わってないって事なんだろう。
一生懸命生きるのはいいが時の流れの速い事。
あの人の計画に比べ僕個人の非力な事。

夢よ。踊れ。休むんじゃない。




僕が初めて自分の意思で見た世界は、 眠そうで閉塞感を根に張り(そう見えた。田舎は嫌いだ。)、全てはすでに決まっているが不意の事態は受け入れるべき運命なのだとでも言いたそうな中途半端 な田舎の光景だった。
僕は、不意の事態があるのならば、神に逆らう意思さえあれば自由になれるという可能性をそこに見ていた。
人々は組み込まれており、 僕だけがどこか違う世界からそんな風景を見ていた。

駅まで辿り着き七十円で切符を買い電車に乗った。昭和五十三年、十五歳、詰襟学生服坊主頭の童顔でいかにも真面目そうな少年。(小さ な彼の肩に乗った多くの様々な運命。)

唯一知っていた名古屋に向かった。
中川駅を過ぎた頃にあるおじさんに語りかけられた。優しいおじさん。今でも感謝以外の感情を思いつかない。
「君、どうしたのかな?何か思いつめた顔をしてるし、今日は平日なのに学生服着て‥。」 (そんな台詞だったかな?)
それまで大人には上からモノを言われるものだと思っていたので社会の中の一人の人間として大人に語りかけられたのはこれが初めてだっ ただろう。
「思想的に納得出来ない事があったので学校を出てきたんです。」
と言った。僕は直向だったのだろう。おじさんは笑って頷きその後の僕の予定を尋ねた。 僕は名古屋に知人がおり取り敢えずそこに身を隠してから交渉を始めるという類の事を言った。おじさんはやはり笑って頷いた。

僕が七十円の切符で名古屋駅の改札を強行突破するつもりである事を知ったおじさんは、 「じゃあ、駅員にでも捕まってしまったら折角の君の計画が台無しになってしまうかも知れないからおじさんが改札を出る時背中にぴたっと離れず付いておい で!そうすれば大丈夫だろうから。」
と言ってくれた。 そこには、素晴らしいモノがたくさん含まれていると今でも思う。そうだ。その後の僕の人生はそのおじさんにも強く影響されているだろう。(ありがとうござ いましたっ!)。

おじさんの背中にピッタリついて改札を出た。改札員はこっちを見ていた。改札員が一瞬「ピクッ」としたのが僕には分かったが改札員は 何も言わなかった。僕とおじさんの動きの方が圧倒的に速かったし昭和という時代の所為もあるかも知れない。

改札を出るとおじさんはすぐに振り向き僕に微笑んだ。 そしてその言葉のない微笑だけを残したまま社会の中に溶け込んでいった。
恐ろしく世間知らずな頭で漠然とだが、おじさんだってどこにも属していないんだと思った。ただ優しく、何人かの人を守りながら生きて いるのだと。
それが物心付いてから初めて経験した他人の好意だった。その後数え切れない程の他人の好意によって僕は生き延びてきたのだ。