schizophrenie


chapterⅠ



虚構世界Ⅰ


僕の運命を決定的に変えるきっかけになったのは雑草に覆われた一本の細い道だった。
何度か思ったことがある。
「あんなに、手が届くほど近くにある毎日見ているあの道を僕は一生歩く事もないのだろうか?」
と。
その道は校舎の窓からいつも何気なく見ている道だった。

校舎と言うのは全寮制の男子校、とある宗教法人の理念と「中央執行部のある計画」によって創設された私立の高等学校の校舎の事だ。
その校舎は当時には珍しく廊下も教室もすべて絨毯敷きで、生徒はスリッパに各自マジックで男子高校生特有の何とも言い難い(現役の高 校生ならうまく表現してくれるかも知れない)字で、自分の名前を書いて履いていた。
大人の目には潤沢過ぎる程の資力を注いだ立派な校舎と設備が際立ち、僕達生徒の目にはその「高等学校の上履きとしては珍しい」スリッ パに書かれた自分達の滑稽な名前の文字が際立っていた。

朝、寮で起床して整列、点呼、朝食、簡単な宗教関係の儀式を済ませ、学校まで二列縦隊に整列して登校する。登校中は寮の舎監でもある 教師が制服の乱れや学生鞄を改造していないか、学生帽を改造している者がいないか等をチェックしながら同行する。
時々教師が生徒の鞄や帽子の改造を指摘し、生徒が必死で弁解している光景を見かける。
校舎までの道は「聖地」を中心に二百メートル四方に広がる立派な日本式建造物である「本部」の正門から真っ直ぐにのびた、機能的にも 景観的にも充分過ぎるほどに整備された一本道だった。
しかしそこは地理的に決して大きいとは言えない盆地地帯であった為、少し歩いていくと所々に、山の麓特有の雑草が覆い茂る小さな農村 地帯へと続く「脇道」が見られた。

校舎の門から入るとそこには砂利が敷き詰められていて、左手の石段を降りた所にグラウンドが見渡せる。右手には講堂があり、五段程の 階段を上った講堂の入り口前に学校長が両手を後ろ手に組んで胸を張り若干見下ろし気味に生徒達を迎えている。
生徒達は敬礼代わりの挨拶をする。
「おはようございますっ!」
「おはようございますっ!」
入学したばかりの一年生は腰を直角に曲げ張り裂けんばかりの声で挨拶をする。二年生は腰を三十度から四十五度程度に曲げ、三年生にな ると生徒によっては首だけ「ペコッ」とする者もいる。上級生はそれぞれに下級生の監視監督役も任されており、その分些細な面では免除 優遇されている。
その時代には「何か大きな事を動かそうとしている組織」ならどこでも多かれ少なかれ軍隊式教育を取り入れていた。それはその時代が 失ってしまったものを取り戻す為、失いつつあるもの達を失わない為、自分達の心を、日本人としての大切なものを受け継ぎ繁栄させる 為、そして何よりも時代の変化の時には必ず起きる「集団の混乱化」を押さえ込む為でもあった。

「学校本部」はクラブ活動による宗教法人の宣伝に力を入れていた。
僕はマーチング・バンド部に所属していたが、マーチング・バンド部で使う楽器はどれも普通の学校のクラブ活動では考えられない様な高 価で立派なモノだった。
楽器が立派なだけじゃない。そのマーチング・バンド部の初代監督は、中学校でのブラス・バンド経験など全くない、楽器演奏に関しては 素人ばかりの生徒達で創設したそのマーチング・バンド部を、
「僕はこのマーチング・バンドを三年で日本一にする。」
と宣言して他の教師達の嘲笑を受けつつ、最初楽器が揃うまでは丸めた葉書をマウス・ピース代わりにして練習を始め、一つ一つ着実に演 奏技術を習得しレパートリーを増やし、パレード経験を積みそして三年後、当初の宣言通り高等学校マーチング・バンド部門全国大会にお いて「初出場、最優秀グランプリの栄冠を獲得」するという偉業を果たした人物であったりもした。

これらの事はとても特殊な世界での話でありそれが可能な時代であったとも言える。
時代が変わってしまった今では当時の「伝説」が雄弁に様々な個々の思いを語りながらも、当時の事実をリアルに体感した者達は時代と共 に言葉をも失い沈黙を守り続けている。
僕にしたって例えばそのマーチング・バンド部やその初代監督について、この文脈の中で自分が自分自身でさえ納得出来る程度にうまくは 話せてはいないだろうと思う。
そういうものなのだ。


普通高等学校のブラス・バンド部なりマーチング・バンド部というのは中学校の時のブラス・バンド部経験者が入部する事が多い。それは 普通に考えれば至極当然な事だと思う。
中には中学校ではラグビーをしていたが高校になってブラス・バンドをやりたくなったという人もいるだろう。それもとても自然な事だと は思うがそれでも、高校のブラス・バンド部にはやはり中学時代のブラス・バンド経験者が多い。そういうのは普遍的な事なのだろう。

しかしこの高等学校のマーチング・バンド部はその様な普遍性とは全く事情を異にしており、部員の中で中学時代にブラス・バンドを経験 した事のある生徒は片手で数えられる程しかいなかった。
それは普通ではありえない事だっただろうが、その様な特殊な事情が起こりえる理由は難しい事ではなかった。
即ち、
・全ての生徒はいずれかのクラブに所属しなければならない。
というその高等学校の校則と
・ラグビー部、柔道部、マーチング・バンド部、雅楽部、布教養成部
というクラブの選択肢、そして
・全ての生徒はその宗教法人関係教会の子弟である。
というその高等学校ならではの特殊な背景が相互に影響しあい、
入学そうそう訳の分からない『規律訓練』で度肝を抜かれ、入寮する事によって家族やそれまでの友人の元を離れ、宗教が支配する町特有 の異質な環境に対する不安の中で
「運動部はしんどそうだし雅楽とか格好悪いし布教養成とか俺には意味が分からん‥。」
という、教団関係子弟でもどちらかと言うと「ヤンチャ坊主」的な生徒達が入学後間もなく行われる「強制クラブ選択」の際に、こぞって マーチング・バンド部に入部していっただけの事だったのだ。

洒落でも何でもない。
一昔前の漫画になら中には同じ様な設定のものもあったかも知れないが、そのマーチング・バンド部は「不良の巣窟」になるにはもってこ いの条件がそろっていたのだ。
そして神通力を持つカリスマ監督の存在は漫画以上のものだったかも知れないと僕は今でも思う。


ダメ押しで驚かされる言葉がここに一つある。
監督は
「このマーチング・バンド部では補欠は一人も出さない。全ての部員は全員、大会にプレーヤーとして出場する」
と公約していたのだ。

思い出す。
練習中監督は
「次、ベートーベンやろか。」
と言った。

今の僕ならその言葉の意味が多少なりとも分かる。
監督は音楽を愛し人を愛し、音楽を信じ人を信じていた。そして神様を通して人を愛する様に僕達を愛してくれた。
そしてその結果として音楽の「お」の字も知らない高校生達相手に平然とベートーベンを語り、補欠を一人も出さず、三度に渡る全国大会 で最優秀グランプリを僕達にプレゼントしてくれたのだ。

今でも感謝の想いは尽きない。ただ僕はこの監督に一つだけ借りがある。
何かと言うと僕はその全国大会前に何度か自殺未遂をし、高等学校を出たり入ったりする事によってクラブにおける僕のポジションに常に 「穴」をあけていたのだ。
監督は補欠を出さない事を公約していたから僕がマーチング・バンド部に所属する限りは、僕が出たり入ったりする度にポジションの調整 をしなければならなかった。
それも全国大会二ヶ月、三ヶ月前の最後の調整、仕上げの時期にだ。

思い出す。
全国大会前に自殺未遂から復学し監督に会った時、監督は僕の肩をグイッと抱き寄せ
「まあ仲良うしよや!」
と言った。

僕はクラブにも復帰し全国大会に出場し、マーチング・バンド部三度目の最優秀グランプリを獲得する場にも居合わせる事が出来た。

全国大会は毎年雪の降る季節に東京武道館で開催された。
三度目の最優秀グランプリを獲得したその年の四月、監督は結婚を理由に引退した。
そしてその四月に僕は最後の自殺を決行する。

何と言えばいいのだろう。
本当に申し訳なくその後も三十年間思い出す度に心を痛めて来たが、悪い事にその高等学校は決して過言ではなく「僕の為に創設された高 等学校」だったのだ。


それについては後述する事になると思う。

とにかくその様な状況の高校生活だったので当然クラブ活動の練習はハードであり身体と精神は常に疲れていた。
そこには常に「神通力」というものが存在したので生活には支障はなかったと思うが、「退屈な授業を受ける為の体力」はそこには残され てはいなかった様だ。

冷たい雪が降る盆地特有の冷たく厳しい冬を、全国大会への情熱で焼き尽くす様に過ごした後、少しずつ訪れる春。
日本一になれた喜びとプライドの中で日常的になっていく規律正しい練習と、仲間同士の緊張を伴った親密さ。
昼食後のうららかな春の日差しと退屈な授業。
圧倒的な睡魔。
そして窓から見える雑草の覆い茂る細い道‥。
どこに続いているのかも知らない平凡な一本の道‥。

僕はある日その道を、どうしても、何が何でも歩いてみたくなった。
少しずつ漠然とイメージになっていったものがある日突然形になる様にして、僕はある日考えるでもなく周囲に人がいないか確認し、トイ レの小さな窓から這い出し学校をグルリと囲む金網のフェンスを乗り越え、土手を下りその道を歩き出した。
その後の僕の原風景ともなる何かを象徴する様な春の日だった。
その道を、別に噛み締めるように歩いた訳でもない。
今思い出す。
そう、僕はあの時初めて「自由」を知った。「自由に触れている」と感じていたのを憶えている。
やっと念願が叶った嬉しさに後先の事も考えず、フワフワと歩いていったのを憶えている。
解放されたと言っても過言じゃないだろう。

きっと今でも、どうしようもない犯罪者にでさえ同情し心が動き、日常の世間話等の中でニュースに取り上げられる犯罪者の話題になった 時に、ついその犯罪者を強くかばう様な発言をしてしまうのは、その時の自分の心理に拠るのかも知れない。
言葉にならないイメージに捕われ、ある日突然自分でも考え付かない様な大胆な行動をしてしまう人間の心理を理解するには、世間と言う ものは余りにも冷た過ぎるのだ。

しかし犯罪はいけない事であり僕は別にそれを擁護している訳じゃない。
ただ僕の個人的な事情として、僕を取り巻いていたイメージはそれがどんな人間であれ、人間である限り個人が背負うには大きすぎるもの だったし、僕は生き残る為にはそのイメージから開放され自由になる必要があった。
そしてその過程で、イメージから開放される為に犯罪に走ってしまった人間に自分を同化し同情する事で、自分が「そのイメージから完全 に開放される為のプロセス」を歩み続けていただけだ。
そして今、この文章をここに記す事で僕のそのプロセスは完了する。