schizophrenie


chapterⅨ



ネコの唄



丸居さんから電話があった。数年前にも電話で話したがその時には忙しくて会う事もないままうやむやになり今回が久々の再会だった。

丸居さんというのはその後アキラが自分でギターボーカルを担当する自分自身のバンドを始めたとか何やかやあって、俺がパートナーギタ リストとして接近していた今でも現役の屈強なギタリストだ。
俺は時々丸居さんのアパート(アパートと言っても六畳二間の部屋に三畳程のキッチンが付いた文化住宅だった。ある日不運な火災で何も かも全てが焼けてしまったが‥。)に丸居さんと話をしに行くのが好きだった。アキラや川村と異なり丸居さんは常に緊張感を求めた。ギ ターを弾き続けると身体の筋肉バランスが崩れ、時に認識がグダグダになる事があるのだが丸居さんはそれを嫌った。だから緊張に耐えら れるだけの筋力と体力が回復する度に電話で連絡を取りギターを持って話をしに行った。

丸居さんのアパートに到着しガラガラッと戸を開ける。丸居さんがあらゆる感情を押し殺し抑制された声で俺を出迎える。「まい ど‥。」。俺は部屋の中に入る。
初めの頃は良く失敗したがこの後すぐにギターを取り出したりすると丸居さんがとても驚く事になる。品性を疑われると言ってもいい。そ れは「子供の遊び」ではなく、そこにはある程度のプロセスを経る事が要求される。礼節という事だ。
俺達のギターは抜き身のドスと同じだ。だからそれがどの様なギターであれギターである以上「抜く」からには「安全性」が要求される。 礼節というのはそういう意味だ。しかしギタリストなのでそんな事ばかりも言っていられない。手合わせした時に互いのルールの認識違い により多少の怪我をする事があっても、相手が「どの様な技を編み出しているのか」が気になって仕方がないという部分もあり、その辺が 凄く難しいところだ。その緊張感に耐え切れず動揺してしまう様な人間に技を使いこなせる訳がない。ここに武道と同じくギターという楽 器の素晴しさがあるのだ(これは嘘。笑)。

何もそんなに難しい事を考えなくても他に何か「共通項」があれば一緒に演奏したりライブの予定をたてたりする事は出来たのだろう。し かし俺と丸居さんは「お互いのギターへの興味と関心」というその事だけでそこにいた。そして運良くその他の「趣味、感性、人生観」等 の話題が噛み合ってその場が盛り上がる様な事は殆んど全くと言っていい程無かった。要するに自分自身のギターを披露して相手の興味と 関心をある程度満足させる以外には他に逃げ場も無かったのだ。

ここで人によっては「君、ここに何しに来たの?」「あ、その日忙しいから又今度ね~」となるところだろうが俺達は「その為に技を磨 く」とか「今度会ったらこのフレーズを聴かせて驚かせよう」とか特にそういう事を考える訳でもなく、しかし定期的にその様な「少し苦 めの震える時間」を共有した。それが俺達が真のギタリストである所以でもある。ギター音楽は旅であり志でもあるが愛があるというのが 前提だ。
その当時俺はライブハウスに出入りしている人間から教えられた音楽を主に聴いていた。
ストーンズに始まりジミヘンやジャニス、ボブ・マーリー、ビッグ・オー、スティービー・ワンダー、友部さんや加川良さん、憂歌団、エ アロ・スミスも聴いたしその後ビートルズを聴いてみたり色々だ。前述もした通り少々複雑な経緯ではあるが、それらは俺にとっての純粋 なレーゾンテートル(存在理由)だった。
一方丸居さんはと言うとそれらの音楽も好きではあったが、俺が高校時代まで最も好きだった日本のフォークソングの話をする事が多かっ た。そこから「多岐に渡るあらゆるジャンルの日本語の音楽」について話が展開して行った。そこはアキラと出会った時とまるっきり違っ ていた。アキラの純粋性は常に具体的に破壊的である事を俺に求めていたが丸居さんの純粋性は壊れている俺の言葉のディ・コンストラク ション(再構築)を求めたのだ。


当時の俺に「自分の中でもう既に壊れてしまったもの」を丸居さんがまだ持ち続けているという考えはなかった。ただそこにある「差異」 だけがやたらと気になった。だから俺は丸居さんが好きだと言うそれらの音楽の「どこが好きなのか」「なぜ好きなのか」についてしつこ く質問した。丸居さんは「何故その様に矢継ぎ早に質問するのか」については少々訝りながらも文句を言うわけではなく、少し不機嫌そう な表情を浮かべたままボソボソと答えてくれた。時に俺が日本語のバラードに聞き入ったりしていると丸居さんも「その歌のどういうとこ ろが好きなん?」と聞いた。その時その問いに答えるには結構な言葉数を要した。
数年後、俺のバンドとアキラのバンドでブッキングしてライブをした事がある。いつも通り「そんなん適当でええねんてっ!そんな必死に なんなや~。」みたいな感じだったアキラはリハーサルで俺のバンド「SAAD」の演奏を聴いて顔色を変えた。
丸居さんは少々タイトなところもあったが、SAADが「バンド」としてゴーサインが出たと彼が判断した時からベーシスト、ドラムスへ のアプローチも含め、楽曲のアレンジメントをグイグイ引っ張ってSAADのバンドとしてのアンサンブルを強固にし、相当迫力あるもの にしていったのだ。
顔色を変えたアキラは普段着のままの予定だったステージ衣装を変更する為にファンの女の子達の間を渡り歩き、その中の誰かから借りた 飾りの付いたオレンジ色のシャツにスカーフまで首に巻き付け(その取り合わせは女の子達にとても好評だった)、それでもそんな風に自 分に衝撃を与えてくれた俺達に喜んでいるとでも言った様子で楽しそうに歌った。

その時に演奏したSAADのオリジナルソングをアキラは勝手に「ネコの唄」と呼んでいる。アキラが企画するイベント「大阪馬鹿息子連 合会」に俺が出席して暫くギター一本で色々やっていると、俺のネタが尽きた頃にアキラが必ず「麻倉‥、ネコの唄やれよ‥。」と言うの だ。
(誤解のない様に言うが、俺は一度ギターを弾いて歌い出したら二~三時間から四~五時間位は平気でやる。)

SAADは当時の俺にはキツくなって行った。それをどの様に書けばいいだろう?
ドラムスが「僕は麻やんが格好良いからこのバンドやってんねん。」と言ってくれた。
ベーシストが「麻倉さん、ゴチャゴチャ言うてんと一人でやらはったら?」と言った。
ギターの丸居さんはその時何も言わなかった。
そしてその後俺は練習スタジオの予約を取るのをやめた。
(誤解のない様に言うがこれら一人一人の発言は映画の一シーンみたいに感動的だ。)
それ以降SAADは活動していない。
丸居さんを初めて見たのは俺が働いていたライブハウスを辞めて間も無い頃だった。ライブハウスを辞める時にギター教室に通っていた女 の子に逆ナンされそのまま付き合い出し、それまでに好きな人がいたと聞かされ一度見てみようという事になり、天王寺アポロビルの十階 だか十一階だかにあった催し会場に丸居さんのライヴを見に行ったのだ。
その時の丸居さんは友人と二人でアコースティックギターを持ち、そのコンサートの企画自体を嘲笑する様なアナーキーなパフォーマンス を繰り広げていた。
当時丸居さんはバンド活動をする傍らパブでアコースティックギターの弾き語りの仕事もしており、彼女が丸居さんと知り合ったのもその パブの弾き語りでという事だった。

初めて挨拶を交わしたのは‥、そう、彼女が下宿をしていた藤井寺にあった小さな練習スタジオ付きロック喫茶だった。俺達がそこで食事 をしていたらバンド練習でやって来た丸居さんと遭遇し、彼女が「お願い‥、挨拶して!」と耳打ちするので初めて一言交わしたのだっ た。
「あ、始めまして‥。彼女から丸居さんの事聞いてます。麻倉です‥。」
彼女は緊張し恥ずかしがっていた(若かったなあ)。 丸居さんはいつもの不機嫌そうな顔で「なんだこいつ?」とでもいった感じで「どうも‥。」とだけ言うとバンドメンバーと去って行った。

その間、僅か十秒ほどの間に目の前を通り過ぎていった丸居さんのバンドがすごく「きちんとしたバンド」である様な印象を受けたのを憶 えている。俺はライブ・ハウスで働いていたから高校生や大学生達のバンドを見る機会も多かったが、彼らの殆んどはコピーバンドだった し当時の俺はコピーバンドを軽蔑さえしていた。セミ・プロのバンドは魅力のないバンドが多く、魅力あるバンドはいつもファンの相手に 忙しそうで取り付く島もなく話しなどは聞ける由もなかった。バンドメンバー探しと一緒だ。
そして俺自身のバンドはと言えば打ち合わせも何も無くいきなり音を出した荒削りなバンドだったから、情熱的に活動しながらも常々何か がある度に「これでいいのだろうか?」という疑問は抱いていた。
「どうすればきちんとしたミュージシャンになれるか?」
それは当然の事だが当時俺の最大のテーマだったのだ。


丸居さんのバンド「チクロ」のライブを一度見に行った。そのライブハウスは電車で三十分弱というところにあったが、それは普段の俺の 行動半径を優に越えていた。その頃俺の身の周りには面白い事が多過ぎたのだ。日頃の俺なら「面倒くさい」という理由で行かなかっただ ろうが、そのライブハウスのブッキングマネージャーがチクロを高く評価していて売り込みに力を入れているという話を聞いたので「一体 どんな音楽をやってるんだろう?」という興味半分期待半分で行ってみた。

当時俺が音楽に求めていたのは歌心だったという事なのか‥(それじゃカヘイ君に失礼だ。だから言葉は難しい‥。)、俺にはチクロの何 がいいのか全く分からなかった。
「こんな音楽のどこが面白いんだろう?」
と思ったわけだ。
チクロが力を入れ、ライブハウスのブッキングマネージャーが高く評価していたのは楽曲のアレンジメントとバンドとしてのアンサンブル だった。その事に付いて当時の俺には深くは分からなかった。不得意分野だったのだ。

チクロについて、バンドリーダーでもあったドラムスのタケさんがボーカリストのカヘイ君の頭をドラムスティックでコーンッと殴りなが ら
「歌を何やと思ってんねん!これが歌や!」
と言い放ち、K君が頭を押さえながら
「そんな事はないでしょう‥。」
と痛そうに顔をしかめていたなどという当時のエピソードも懐かしい笑い話として後日丸居さんから聞いた。
そんな話も当時の俺には全く理解出来ず、それを笑いながら話す丸居さんに若干の疑問を感じながらK君に同情したりしていた。少なくと もチクロは当時の俺とは又違った種類の無骨なバンドである様だった。

一体どの様な経緯で丸居さんとバンドをする事になったか良く憶えていない。それはとても長い時間の中での事だ。丸居さんがバイトして いた喫茶店に行って話題のない時には何を喋るでもなく、コーヒー一杯で何時間も辛抱強く居座ってみたり、丸居さんのアパートに行って も日によっては時々言葉を交わす程度で、何時間も気まずいとも言える時間を過ごしたりした。簡単に言えば丸居さんはギターが上手かっ たし俺は上手いギターとやりたかった。それだけの事だ。 それでも時々丸居さんのアパートに行くのは楽しかった。学ぶべき事がたくさんあったからだと思う。一人の男が音楽をしながらこの実世界で生きていくという 事に付いて。
いつもの様に俺が「エーイ」という感じで丸居さんに「一緒にバンドやりませんか?」と言った。丸居さんは「バンドをするのは別に構わ んが‥。」と答えた。
丸居さんと仲良くなるのにも又結構な時間がかかった。前述の通り話をして共感する事はとても少なかった。その様な人と「組む」事が正 しかったのかどうか?俺は知らない。

電話で丸居さんは、今でも俺が昔作った歌を歌うと言った。会いたいと言ってくれた。
それは間違いなく俺達が生きてきた証だろうと思う。
俺達がその「壁」を乗り越えるのにはそれだけの時間が必要だった。
丸居さんは「俺が薬物を使用して自己の破壊を試みた現場」に居合わせた数少ない人間の一人でもあった。その様な行為は人の関心を引く のかも知れない。そう。丸居さんとたくさん話をする様になったのはその頃からだ。 丸居さんのバンドのバンドリーダーが亡き人となったとかそういう「丸居さん自身の心境」もある。チクロのバンドリーダーが死んだのだ。彼は病魔と闘い身体 の形が変わってしまう最後まで「無骨で皮肉な人」だったという話も聞いた。そして彼の死とその様な死に様は丸居さんを深く傷つけても いた。

合掌。
俺が作った歌は

Hey Boy ちょっと気取ったシャイ・ボーイ
Hey Boy 夢を見ているピュア・ボーイ
Wake up 頭飛んでるインテリジェンスメーン
Hey Boy 空を見ているスキゾフレニー・ロンリー・ボーイ
左手にはマザーコンプレックス
右手にベガーボーイズシンドローム
片言で口にしたのがアイ・ラヴ・ユー.
というややこしいものだった。


丸居さんは俺とは全く違う感受性の持ち主だ。長年に渡り鍛え上げられたその耳に何かの折りに鳴り響くその音楽は、俺の脳裏に何かの折 りに鳴り響くそれとは全く違う種類のものだ。もしそこで俺達が何もしなければ。

俺は薬物使用者だった頃に生きる為に、そして何かに答えを出す為にその歌を作りバンドで演奏してもいたが、SAADが活動を休止して 以後その歌を歌いたいと思った事はなかったし、その歌が俺の耳に、脳裏に鳴り響くこともなかった。
だから何故丸居さんの耳にその歌が鳴り響くのかは全く分からなかった。その耳にそれが「どの様に響いているのか」も、だ。

しかし今は分かる。少なくとも彼は俺の事を愛してくれているのだ。
彼が自分の事を愛する様に俺の事を愛してくれているという事を、今は逆の立場として理解出来る。
今丸居さんの中で俺は、ミュージシャンとしての麻倉として成立しているのだ。俺の中の誰かがそうである様に。

そのメッセージは丸居さんが投げかけた。
俺達は生きて音楽をしている。
だから伝えなければ伝わらないし伝え続ければいつかは必ず誰かに伝わるという事だ。
自分の中にあるイメージを、そこに反感、軋轢があっても吐き出し続けなければならない、
もしそのイメージが本当に命を持っていて、この世界で生きる上でどうしてもそのイメージと共にある事が必要ならば、人に向かって吐き 出し続けなければならないのだという事を。

このリーマンショック、震災後の変動の世界の瀬戸際に彼は俺に告げたのだ。

そして俺は今こう思っている。

丸居さんと身を寄せて一緒にいようと。

俺達がまた再び好き勝手出来る様になるその時まで。
電話で話し、待ち合わせの場所にやって来た丸居さんは、共感出来る事がとても少なかった昔に初めて共感し、お互いが笑い、話す事が出 来たその「タイトなブルージーンズ」を履き、イエロー・コーンのライダースジャケットを羽織っていた。
そのライダースジャケットは俺が昔に日本橋の露天で売っていた焼き玉蜀黍を思い出させた。丸居さんはその玉蜀黍が好きだった。
そしてそこに丸居さんが、これも丸居さんにしては珍しく女の子とデートで、初々しい緊張と照れくさそうな笑顔でやって来た時の事も思 い出した。素敵な笑顔の女の子だった。

実際丸居さんはその日そんな表情で俺との待ち合わせ場所にやって来た。
しかし話をしてみれば昔同様「そんなのは言葉ではいらん」という頑固とさえ思える程のタイトなポリシーを相変わらず趣旨一環して表し ていた。
言葉ではなく何が必要なのか?それは今では「俺自身の音楽の課題」だと思っている。
それは行動だ!というのは簡単だ。
「一体誰が行動するのか?」それが最も問題なのだ。

丸居さんは自分が話をする時も俺の話を聞く時も、一つ一つの言葉を注意深く吟味し確認しながら話した。相変わらず乱暴に溢れ出す俺の 言葉のシャワーも、「既に見切っている」とでも言いたげに器用にかわしながら苦笑を浮かべた。

アキラの店に流れ丸居さんは俺の為に出し巻き卵を頼んでくれた。何だかとても優しく勧められて俺はそれを食った。(考えてみれば丸居 さんが頼んでくれてアキラが焼いた出し巻き卵を食えた俺は世界一の幸せ者なのかも知れない。)
そしてその日の別れ際、丸居さんは少しためらい気味に一言俺にこう告げた。

「(バイク便のバイクで)バーーンと車に当たって(事故して)バーーンと飛ばされてゴロゴロゴロッと転がりながら『今度は逝った か?』と思って顔を上げるとまだそこに運転手の顔が見える。そこから交渉が始まるんじゃ。今まででそういうのが六~七回ある。」
 と。

その一言は強烈だった。
それは当然、答を急ぐとかそういう類の話ではなかったが、その時の俺自身はと言えば

「これは俺の言葉では歯が立たない。」

とはっきり思ったのを憶えている。
そしてこの「GUITAR」というタイトルを冠し、長くなる筈だった連載小説ももう続きそうにないと思った事も‥だ。

そして俺はページを2~3ページ戻し、最後にそこにこう書き加えた。

 
だから暫く、という訳でもないが今回の連載小説はもう続きそうにない。

小説を仕上げるパワーがあるならその分音楽に時間を回そうと思っていた矢先の事なので丁度いい。
この長い連載小説はこれで終わりにしようと思う。又気が向いたら書くかも知れない。

読んでくれた人達、本当にありがとう。

またきっとここで会おう!

またきっと必ず!!