schizophrenie


chapterⅨ



虚構世界Ⅸ



僕は母を不用意に困らせたくないと今でも強く思っている。 母の運命は信仰と社会の板挟み(ジレンマ)になる運命だった。
そして夫と添い遂げる事が出来なかった運命上、現実の人生を生きる為に信仰よりも親戚を選んだと言っても過言ではないかも知れない。
しかしそこを無理に追求し考えてみても何の答えも返って来ない。遥か昔より歴史に語り継がれる教訓に従って、ジレンマに耐え切れず人 を責めるのではなく、自分自身を運命に馴染ませるのだ。少なくとも僕の運命はささやかながらも壮絶なものだった。 そしてそれは僕個人の業なのだ。

しかしそうは言っても今でもまだ日々の何気ない営みの中で、心のあちこちに残っている棘が事ある毎に僕に「答えを出せ」と疑問を投げ かける。

例えば僕が自分の存在にまだ傷つきもがいていた頃、母と叔母と三人で神棚の前に正座して話をした事がある。
話をしていて僕の神様に対する感情は激昂し「こら!なんとか言ってみろ!」と叫びながら神棚に暴れかかる素振りとなった。別に壊そう と思った訳じゃない。気持ちのやり場が無かっただけだ。しかし母と叔母は慌てて僕を力ずくで引き止め正座させ、その時叔母に「神様の 声は心で聞くんじゃ!」と叱責された。
あれって何なんだったんだろうと今でも何かの折りに思う。正直、人というのは神の名においてまでも人にそんな風に偉そうに言いたいも のなのか‥?というのが僕の正直な感想だ。何を偉そうにとも普通に思う。玄関で宗教の勧誘員の話を聞く時などに、その相手によって思 う。

よく考えてみて欲しい。
叔母はそれほど熱心な信仰者ではなく、どちらかと言えば親戚であるという成り行きから教会に足を運んでいただけで特に何の拘りを持っ て教団に属していた訳ではないのだ。
神様に対する専門性という事で言えば教育的にも経験的にも年齢とは無関係に僕の方が深いものを持っていたし、だからこそ僕は死んでし まう程にもがき苦しんでいたのだ。

叔母は良い人だった。母も良くそう言っていた。要するに叔母は僕が会長によって施された「信仰教育」よりも自分の日々の営みの中での 「無意識」の方が神様に近いという事が言いたかったのだ。そこには教えも教団も必要ではなかったし(場合によっては会長の権力の恩恵 に預かる必要はあったかも知れないが)、だから叔母にしてみれば会長が失脚しようが教団が方向性を変えようが痛くも痒くもなかったの だ。そして普段は善意の第三者として沈黙を守っていながら、前述の様な時には、その時そこで一番の弱者であった僕に対し、その様な形 で日頃のコンプレックスや鬱憤を爆発させただけの事なのだ。

もっと簡単に言えばその時母も叔母も、僕が神棚を壊したりする事によって会長にこっぴどく怒られるのが怖かったのだ。だからその瞬 間、そこに至るまでには「もう一度僕の話を聞いてみよう」と二人思ったその気持ちも瞬時に忘れ去り、慌てて僕を「力ずく」で制止し叱 り上げたのだ。
それはいい。母や叔母が会長を恐れるのは仕方がない事だし、同じ立場なら僕でも場合によってはそうするかも知れない。だけどそれなら ば
「神様の声は心で聞くんじゃ!」
の一言は余分だという事だ。そしてその時そこに叔母の「潜在的願望が現れた」という事を僕は言っているのだ。


少なくとも叔母は僕の為に一滴たりとも涙を流した事はなかった。
「何が何やら全く理解出来ない」というのがその理由だっただろう。
叔母の流す涙はいつも母の為の涙であり、母が慰められる事はあっても僕が慰められる事はなかった。
それはきっと「僕の抱えている問題」が叔母にとって「余りにも専門的に過ぎた」からだったのだろう。

しかし今は思う。

難しい事が苦手で分からなくとも社会できちんと働いて人に迷惑をかけず生活さえしていればそれはそれで立派な社会人なのであって通常 は何の問題もない。

難しい事を考えるならそれは難しい事を考える人が個人の問題として処理すればいいのだし、何か特殊な才能があるのならば社会にはそれ を開花させるチャンスというものも用意されている。

ある程度努力してその才能を開花させる事が出来なければそれは「自分にはその才能はない」と諦めなければならないし、それが出来ない のは我侭、もしくは社会不適合であるいうのがこの国のまっとうな社会的規範だ。

時代が移り変わり一般と呼ばれる大衆が社会全体として精神性を希薄にしていったとしても、それは又別の問題なのだ。
もうその様な事について今更どうこう言うつもりもない。
今やこの国ではお金が正義というかつての暗黙の了解事項は既にまっとうな良識と変わりつつある。

日本に限らず世界には「守銭奴」の代名詞的な民族もあった。
しかしその事は知っていてもその「守銭奴」と呼ばれた民族が、自分達の言葉で語れる宗教を堅持し続ける為に、どれ程の血の滲む様な代 償を支払ってきたのかは誰も知らない。
宗教が原因で戦争をする人々の事をほとんどの人達が「他人事」と信じ、その悲痛さも深刻さも常に「対岸の愚か者」として扱う発言しか 日常の中では聞かない。
(その様な発言に対し、ほんの百年も経たぬ過去に我が国の先人達は天皇を神と信じ、実際はどうであれ国民一丸となって戦い、敗戦の結 果として僕達の言語活動が危機に瀕しているという話をしてみても、話を聞く前に変人扱いされるのがオチだ。都合の悪い話は一切聞きた くないのだ。)

今この国が直面している諸問題は益々深刻化しているが、その様な事は専門分野の人に任せ、個人個人は自分自身の人生や生活をやりくり するしかないし皆そうしているのだ。

今では僕もそうしている。それはそれで何の問題もないとも思う。
それで何の問題もないのだ。